やっと安らぐ店を見つけました。

今晩は「こんなところにCafé」に行ってきました。 えびす家Rossの精神的なRossを補う場所をやっと見つけました。それが「こんなところ」です。 居心地のいいところは自分自身で作り上げなければいけないと悟りました。

それは「こんなところ」は創業数カ月というところが私なり、私の好みに育て上げられる可能性があるということです。偉そうに言っているのではなく。

 

オーナーご夫婦もまだ飲食業としては「純」ですから、これから店の味を構築していくのでしょう。ですから私の世界も作りやすいのです。

 

というのも飲食には50年以上の関わりですが、客としてですが、えびす家は既に出来上がっている店です。私のような甘ったれには格式があり過ぎ、到底歴史の重みに負けてしまいます。オーナー夫婦には特段の何ともいえない重みがあります。 さて、古き関わりは既に何の未練もなくなりかけました。

「こんなところ」にも楽しさを発見し今晩は養源寺の御住職と共通の趣味である。カメラについてがきっかけで最後は宗教論にまで至りました。(住職の娘さん夫婦がオーナー)

 

調子に乗って言い過ぎを又やってしまいました。

前後のこの発言に至るまではかなりな高尚な会話はありました。

 

でもやっちゃいました。こんな発言をしてしまいました。

 

宗教というのは飼い馴らしのシステムです。

人間というのは飼い馴らされないと、羊や山羊や牛や馬のように飼い馴らされないと野獣なんだということで、飼い馴らしのシステムとして、イスラム教、あるいはそれ以前からあるユダヤ教、次いでキリスト教というのが成立してきたと思います。

これは大きな思想を生む根源になるのですけれども、飼い馴らしのシステムとしては、日本では仏教が六世紀半ば、奈良朝以前に入っていたわけです。と。 養源寺は日蓮宗、私の実家も同じですが、私は上述の考え方を持っています。

 

それを聞いている御住職は穏やかなお顔をされ、じっと聞いてくれていました。

何と愚かな調子の良い自分が恥ずかしくなりました。

その後話しを逸らし、自分が今まで描いて来た仏画の話に持っていくという手の込んだ会話になりました。

 

思ったんですが、私が知識をひけらかし住職に己の知識で、恐らくはそれは意図的に私をよく見せようとする自己顕示欲としか思えない。そんな自分が住職の前で示している。 それを住職はソフトの受け止めていることに気がつかないで調子よく司馬遼太郎等の名を連ね滔々と雄弁をふるっている自分が時を置き恥ずかしくなっているのを住職の姿勢で気がつかられました。 それは会話上のやり取りでしたが、住職の会話は一見平凡だがそれは檀家の方々にお話しをするかのように亡くなられた方に対する、それを何というのでしょうか説教ですか、実のソフトの返答が返ってくる。

 

私にはそれが出来ない。知識をひけらかす。愚かで恥ずかしくなりワイン一本を空けてふらつきながら家路にと、自分の方には重い後悔がドカッと背負って帰りました。

 

本当によかった。家に近く、ましてや吉方にあり、安らぐが但しメニューがまだまだである。

 

そうでした因みに「こんなところに」は「じゅん散歩」でTVに取り上げられました。

 

そうそう!えびす家Rossで友人たちが河豚とか冬の鍋物が楽しめないと嘆きましたのでそれはそれで是非行ってあげて下さいと言っています。

 

私は早くマー君(息子)の時代になることを楽しみにしています。生きているか