楽しいはずがストレスが溜まり、荒れる!

今日は日曜日お婆さんのお世話を終わり、仕事の資料の整理などをしている。

そうはいっても目の前の洗濯物が溜まっているので資料整理しながらも同時に洗濯もしながらである。

 

何故か今日、日曜日は何処にも出かける気が無く家での仕事と決め込んでいた。

それは昨晩、いつも通っている近所のコンビニで店員の一言が気に入らないので「あんたのマニュアル通りの言葉はわかるが、私は毎日のように通っているんだよ。何か不審なことでもしたら近所だし、歩けないよ」「感じ悪いし!柔軟性が無いね}と籠を投げつけてやった。

 

大人げない。それには誘因がある。ストレスである。

何だかこのごろ、私の行動がどこでも濃密過ぎることをしみじみ感じて来ている。やはり見習うべき人が多いのだが、ある程度の距離感という物は「絶対に」必要などだとつくづく思うようになった。

 

当然話が重くなり、プライベートにも立ち入る。「ほどほどが良い」 物事を、静かに深く考えたり、注意深く観察したりすると自分の行動が悪い。よくよく。じっくり。そう思う。

 

兎に角、全てが「重い!」それがものすごいストレスになったいる。其のイライラがコンビニでの行動になってしまっている。帰って来て不消化で下痢をしてしまった。

 

私の考え方には全ては完璧等というものはない。人間関係も食べ物も私の関わりの深い服(ファッションも)完璧はない。神は必ず「チョん!」と傷なり汚れなり、何か上手くいかないこと、物を残す。印す。

 

夫婦でも相思相愛などあり得ない、ましてや友人、他人なども合わない部分を残す。

楽しむべきところでストレスが溜まるようでは、溜まり過ぎるとかえってよくない。

 

「神の為せるわざ」とは実に絶妙の”はからい”があるのだ。

何でも極端はこうしたお洒落をしたり、美味しい物を食べたり、こうした幸せも真逆な心に闇も作る。

 

でも根底には私自身の「甘え」があるのでしょうね。「許し」は「崩れ」を招く。凛としていなければならない。気を許すと甘えになる。凛として態度などがひきしまっていることはどんなところでも必要なのだろう。プライベートの発言は出来るだけすべきではない。

 

必ずやそれに触れると立ち入るきっかけを作ってしまう。これはかなりのハイレベルな良識と見識が必要なのです。あり得ない。

 

本当に利口な人(距離感を心得ている)は数多く見ているが、私には出来ないと決め込んでいた。でも私の考え方は危険すぎる。「濃密」=「甘え」なのが気がついた。

 

利口な人の態度、行為は見ているので「自分の世界をしっかり持っている」どうすべきか、どうすべきか分かっている。

 

有頂天になっている自分の姿が実に格好悪い。惨めな気分である。

70歳で改めて自分を顧み、修正しようと思っている。

 

孔子曰く。

「過(あやま)ちて改(あらた)めざる是(これ)を過(あやま)ちという」

「自分の過失を認めてわれとわが心に責めることの出来る人を、私は見たことがない」と言われないようにしなくては。今回は覚悟の上。

 

叔母の具合も悪いし、習志野は引っ越しか?通いが多くなる。良い機会だ。