元の木阿弥。

ボランティアで知的障害者のお婆さんのお世話が終わり、家は帰ればやることが沢山ある。洗濯が溜まっているのでやらねばならぬ。

温かくなって冬物なども洗濯とクリーニングに出さなければならないので整理するなどやることは一杯ある。季節の変わり目は毎年そうだが”モノに丁寧”さを大切にしている。

 

そんな整理整頓をしていると身体に電位(エネルギー=潜在すること。また、可能性としての力。物理的表現ではあるが、位置のエネルギーのように、物理的な場が、物体に潜在的に与える働き)が生じる。

 

そうすると忽然と散逸していた資料、ずーっと所在が分からなかった写真(最初の奥んとの思い出と子供の)が現われる。きっとこんな時は奇貨を居(お)くべしとでもいうのか、得がたい機会だから、うまくこれを利用しようとしなければならない。

 

「奇貨を居(お)くべし」とは面白い。出るは出るは(大袈裟だが)珍しい品物は買っておけば値上がりするかもしれないというものと、ある貴金属(言えませんが)が出てくる。

 

こういう話は面白いが止め時ます。

 

さて、生活感まる出しのルーティンが終わると、仕事の戻る。

今回の仕事は全てにいつものペースとは違う。何故か作品を見て採用を判断する立場である。でも職人ですね、ラフスケッチですが、打ち合わせ、採用の理由を説明に使っている。

 

そんな時は「やっちゃう!」という、私の造形語である。こう描きたい、こう描くべだと思ったことは躊躇わずそう描く。遠慮するな。無我夢中でやればよい。という、れらの一切合財を含めたのが、授かった能力にある。

 

「本来無一物」ということが、基底にある。と思うと気楽である。

こんな気持ちでいると「老いが寄りつかない」今回の仕事の立場の欲求不満である。「何くそ!」とある。

 

前回も言ったが、若手の描き手は若いのに名門名利(社会的地位や財や評判ばかりを追求する人生をさす)に駆り立てるのであろうか。

 

「名門名利」はあだばな(徒花)に過ぎないのだが。咲いても実を結ばない花。外見華やかでも実質を伴わないもののたとえにもいうものである。

 

悍馬(かんば)がイタリアから帰ってくる。敢えて相当難しい言葉でぼかしていたほうがいいのでそういった表現をしている。激しい言葉だが二番目くらいのやや柔らかい強さをいっている。

 

はっきりした自己表現をした眼鼻立ちをしている。並みの素質ではないのだが、もったいない。厳しい世界を選んだので仕方ないがどういう人生を今後歩むのか。

 

ずっと話が逸れるが、大森駅ビル地下から一階にエスカレーターで昇っていると両側一面に鏡になっている。

髪型をショートにした自分の姿を忘れて「ポコン!」と腹の出た若作りのオジさんが映ってる「かっこ悪い!醜い!」とバカにしてうす笑い。

 

フッと、気がつくと何と己れの姿でわないか。恥ずかしくなった。

 

何とかしようと幾つかトライしたが、特に食事制限は真っ先に放棄、ストレスを溜めるよりも美味しいものを食べていた方がいい。結局挫折、元の黙阿弥。