「寿命」というものを考える。

聖書の中にも、寿命は、ギリシャ語の「ヘリキア」という言葉が出て来るのだが、この「ヘリキア」もなかなか含蓄のある単語だ。気になって調べると。

それは「寿命」と同時に、「背丈」と、「その職業に適した年齢」という意味を持っている。これらは、どうすることもできないものとされてきた。

人間個人の努力でも近希望でもい、動かせない要素ばかりだ。「なせばなる」ことの不可能なもの、死に先立つ運命である。

どんな才能のある人でも、引退はある。誰もが人間そのものを止める時さえ来る。それを私達は死とか寿命というのだが、新約聖書の言語であるギリシャ語では「ヘリキア」という言葉で当てられている。(曽野綾子氏の言葉から)

 

老いるということ。を素直に捉えよ。と言うことか?

 

 感受性が徐々に死んでいってから、次に肉体が 死ぬのがよいのだろう?といわれてます。 精神はいつ迄も若くても、肉体の疲労感がついて行けないときが、必ず来るのだ!

 

それが 生まれ落ちたその日から 次は『死』へ向かっての 旅立ちなのです。

 

 めでたい、めでたいといって立てる門松は、死出の旅路の一里塚といわれているのをご存知ですねぇ~しょんぼり!

 

朝、覚醒すると仕事で徹夜以外は不安感が襲う。

それで必ず思うことは「いつまで仕事が出来るであろうか」「健康に対する不安」こんな時は独りぼっちはとても辛い。 そうすると上述の思い(寿命)が全てを脳裏をよぎる。

 

仕事で絵を描くことはそうした不安感を忘れさせてくれていたのでしょうね。それがその時私は見栄を張って。「もう描けない」などというかも知れない。しかし実は「もう描けない」のである。そしてその時は必ず来る。

原則は一つだ。描けないときに無理をして描くことはない。

どの仕事の分野でも同じだ。そうなっても多分、私は静かに座り思惟する。私にはすることがなくなったわけではないのである。

どの仕事にも、いつかはそれが終わる時がある。

私はこの頃、肉体の死に先経つ立つこの精神の死に方にも、あまり抗わない方がいいと思うようになった。

順序としては、まず感受性が徐々に死んでいき、次に肉体が死ぬのがいいのであろう。