平凡で単純な日々を求めて。

此の頃、平凡で単純な日々の繰り返しを望むようになっている。

確かに私は占い、絵描き、介護のボランティア(土日曜日)など占いでは相談内容も複雑極まりない。

 

政治家、芸能人、闇の世界の人、不動産など億という金額にも関わったりもする。大きな失敗もなく、こんにちまで過ごしてきましたが、私の周りの目は変人という、いわば騒々しい存在のようだ。

 

そしてそれを避け平凡、、単純を望んだのだが、普通の人は秩序好きな空気中にいる。私は極端に言えば快感の秩序化である。何事にも突出しているが、突出してはかえって趣味が悪く、素っ頓狂である。

 

自己を主張しすぎる。些か匠気が見える。

漱石は「余は下宿に立て篭もりたり」 しかしこの頃は心地よげにしている。狭いが我が家にいることが多いのだが、整理整頓、気分としてはまるで神殿のような霊気が漂っている。そして森閑としている。

本も読みに読んで耽読といった環境作りをしている。

 

「血を以て、血を洗ふが如き手段」である。今の自分を何たるかを知ろうとしたのである。

 

そうなるとさすがに極親しい相談者からは「先生!長いお付き合いとさせて頂いていますが、一面人情深いが、反面、ざっけなく感じるのですが」と言われてしまった。

そんなに変化があるのであろうか。

 

正しい言い方か分かりませんが「爾汝の交わり」という慣用句があるが、そうであってはならないという理由で言葉が慎重になっているらしい。本当は今年の課題が「言い過ぎ、やり過ぎ」を指導霊から指摘を受け気をつけているのもそういった感じに見られるのでしょうか。

 

今年は年初から支出が多い、殆どが「手元不如意」な方への援助が多く、年初に今年を占ったときに「意の如くならず」という年で又「不如意な結果に終わる」と占った。

要するに経済的に苦しい人を救うということである。

 

でも今選んだ環境は沈潜した心情を露悪的なほどに要するに正直でであった。まあ!こうしたことを賞翫(しょうがん)しているのでしょう。

 

自序の中で露骨すぎるほどの正直さをもって、憂憤を吐き出している。自ら卜(ぼく)したことですからね。

 

しかし心境は複雑で朝、覚醒をして陥る不安感、いったい何?不覚にも別種の感情が込み上げて来て、自己憐憫、自己嫌悪、劣等感という傷は如何に深いか、端から気づいていないに違いない。

 

「もういいや!」「ここで落ち着かせて後は保存です」という安定線にとても達していないという飢渇心理がある。恐らくはまだまだ変化するに違いない。

 

元に戻すと異世界、異空間に旅をすると(大袈裟ですが)金殿玉楼を見ることが喜ぶが、しかし戻って来て我が家の安楽椅子に腰をおろしたとき感ずるのは、結局、我が家ほどいいものはない。というものであろう。魚が、自分の魚巣に感ずる気分である。今は。