お互いに関心を持っていると、いつか、どこかで逢えるものなんです。

朝からいつも訪れるルーティン、今朝は寒いからなど理由をつけて止めることを考えている。いやいや!やらねばならぬと、かぶりを振る。何でも「先送り」というのは極端に嫌う。「後回し」のですからね。

 

頑張って洗濯を致しました。洗って干せばいいというのでないのが辛い、畳みがあるでしょう。あーっ面倒くさい。そう言いながら結構ちゃんとやるんです。

 

でも私は食器などは必ず食事のたびに洗います。それは何でも完結しないと気が済みません。帰宅して台所に汚れた食器が残っているとドッと疲れが出てしまいます。

 

二年近くお会いしていない、Hさんとえびす家で逢うことになった。Hさんは銀行員で上海に転勤、中国の春節の休みを利用した帰って来られた。

 

嬉しかったのは私が一番最初に逢ってくれたということでした。(偶然にしろ)

私の息子よりも若い、理由はともかくも縁としか思えない。

 

こんなことを考えた。「お互いに関心を持っていると、いつか、どこかで逢えるものなんです」それが縁というものです。

 

えびす家ではふぐ料理と堪能し、Hさんは「上海にも日本料理店はあるので”食”に対する不満はない」とのことでしたが、メールでは日本食を渇望していると。「やはり日本で日本食は美味しい」と言ってくれた。

 

その後BACCへ友人には声かけをしていたらしいので、私にとっても懐かしい人と私も逢えた。

何と土曜日にしては大混雑。賑やかで楽しく、満足!満足でした。

 

家路についても足取りは軽やかであった。

 

最近BACCOではやたらに70歳ということをなんで同じ話を繰り返すかというと「きいてもらえた」という実感がないからです。

人は、自分の話をきいてもらえてないと感じたとき(意識的にも無意識的にも)、同じ話をもう一度します。

それは70歳を言うことは還暦の60歳よりも遥かに不安感が襲います。朝、覚醒するととても心が重くなります。何だろう?この頃は?と思い悩みます。

すると一つの行為を若者に向かって言うのですが、そこには「私が20歳の頃に70歳っていうのは、もう人間とは思っていなかった。私が70歳になって20歳を見ていると、あれは人間じゃないね」という考えになっているのが面白い。

 

しかし私が信じているのは「若いですね!70歳にはとても見えません」といわれるがそのまま素直に自分の刺激剤にしているし、学ぶ意欲に繋がる。

 

それは。

「老人になった時に、見せるべきものを持っているか。語るべきものを持っているか。伝えるべきものを持っているか。このうち、一つでも持っていればいいのです」ということは若者の支持を受けることであると自認している。

 

情熱ですよ。チョウズ・雪隠(せっちん=便所)が近くなったから老人ではない

 

一般には「若者が老人を嫌うのは、それが君の未来だから」ということだと思う。

 

「語るべきものを持っているか」では若者に向かって言いきってしまった。「世の中をね、正しい、正しくないで区別するのはおかしいです。好きか嫌いかで区別した方が正しいね」と実は心底にはこんな考えがあるのです。