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まさに「理外の理」私自身が「憤怒」姿であった。

むっつりしている人でも肉体そのものが能弁だった。

 

日本人は、(勿論、人にもよるが)余り会話をしない。

 

会話力とは恐ろしいものだ。その人の出自がわかる。教養、性格、人生観、癖、興味の対象などが全て露わになる。

 

会話は腹が据わっていなくては出来ない。相手のご機嫌を取ろうとすればかえって嫌われ、自己宣伝などしようものなら侮辱される。自分のことばかり喋れば、やかましい奴と思われ、一切自分を語らなければ、何か腹に隠している胡散臭い存在として敬遠される。

 

そんな人との出会い意外性と会話というのは実の客観性が必要である。

 

出会いと別離もあり。

最近のいろいろな出来事の収める言葉が見つかった。 それは「理外の理」である。

結局、他人の考えというものはそれぞれ生き方で考えが違うのが当然。

 

普通の道理では判断することの出来ない難しい道理。「理外」は理屈や普通の道理や常識では説明のつかないことで、常識を超えた理の意、物事の正しいすじみち。また、人として行うべき正しい道。わきまえることでしょうね。

 

先週が分単位の忙しさ、在庫の服、アクセサリーの整理、高級ブランドで一回しか着ていないモノ。いいモノは秘密ですがJAL(スチュワーデス)などご愛用の店にもったいないですが卸す。 その整理で追われるのが先週から続いている。途中から35年間私のスタッフをしていた女性に任せてしまった。

それでも職人根性ですね。実地踏査しないと気が済まない。忙しさは収まらない。

 

私がアトリエを引き払ったお陰で女性物が狭い私の住まいにドッとやって来た。 それでなくても紳士モノが多いのにまるで服の上に寝ているという姿である。 70歳にはキツイ日が続くが、知識欲は人一倍の意欲だが、絵画についてのアイデアは衰えを感じる。(だからアトリエを引き上げたのだが)

 

「年をとって知識が増えれば増えるほど、物事に感動することが少なくなるが、それだけの分だけ創作力がなくなって行く」ことが大きな理由である。

 

それよりも後輩の作品の見事な出来栄えに嘆賞することが多くなり、70の小父さんの出る幕ではないと思うようになったことである。

 

最近私が関わっているデザイン事務所の30代後半のB君の作品が閃光に出遭ったような感動を覚えたことがそうした気分に陥った理由である。 それは宗教法人の依頼で、こんな注文があった。「しだれ桜の満開で壮観、まるで仏国土の天蓋のように華やかで、夢幻のなかにいるような世界」の注文内容である。

 

B君を推奨、協力を求めた。それは畳、一畳分サイズ、結果が良かったのですが、私はどちらかというと過去に「地獄絵図」を描いたが、この印象が強い。 正直この注文には苦手意識がある。私は得意な仏画に儼乎たる不動明王がある。どちらかというと邪気を払うあのような「憤怒の顔」一説には「愚かなる愚衆を力強く導くため」とあるもの。自我による怒りは、心を穢しますが、相手を想う公憤 は、仏の心の一側面 です。

護法(諸天)善神にも、憤怒尊は いらっしゃいますが穏やかなお姿の方もいらっしゃる。

 

その協力者のB君の描くものが穏やかで優しい。色彩も温かい。むっつりしたいるが能弁な私よりも黙々と描く姿が私にはないものである。

 

まさに理外の理である。私自身が「憤怒」姿であった。それが今回、最後の大仕事が「仏国土の天蓋」ですよ。描けない自分を指導霊の不動明王が訓戒であったのであろう。不思議です。人として行うべき正しい道なのでしょうね。