時々あるんです。自分がとても嫌になる。

泰然自若と何に対しても慌てずどっしりとしていたいが、余りにもいろいろな事があり過ぎた、大きな娘の突然の出現、近々ではE子さんとのご縁で無縁に近い音楽の世界を味わう。それだけじゃないですが強い印象として。

 

そうすると環境というものは自分以外もので大きな影響を受けることになる。それは全て女性が関わっているのです。大きく言えば政治の裏に女性の関わりが深いですからね。

 

普段ならば惣てきゃっきゃと軽忽な声を発していたり、自分のように、この歳で恋をするものか自らを軽蔑したりと、意気自如(いきじじょ)などほど遠い。

 

というのは狭さ故ならではの常住坐臥の状態でも症状が現れている。

 

最近、独居老人となると子供に半強制的に押し込められた部屋で狭さ故の人間の感覚、広さよりも狭さの方が分かりやすい。と言われるが生得の感覚として把握出来ない。

 

特に広い家で育っていたのですが、それは所詮日本のレベルなのです。特に狭い国で生まれた者には広さの把握が苦手で、ナポレオンでさえ、広さという得体のしれぬものロシアという大空間に出かけて行き、負けからやっとその広さに気がついた。

 

日曜日から月曜日はとても安らぐ、くつろげる日なのです。

本来は早寝早起きなのですが、絵を描いていたときは感性の鋭くなる深夜の仕事をしていました。

最近は絵からは解放されて本来の習慣の方が肉体的にも精神的にも本来の自分に戻ったと言えます。

 

でも日曜日は違います。今は心境として不良少年(おやじ)になった気分で楽しみます。

それは狭い部屋からの解放でもあるのですが、人と接する機会が生ずることでビジョンが広がる。

 

広げようとすると八方に意識が広がり過ぎるきらいがある。

自分の領域、「分をわきまえる」とは「その人に相応しい行動をとっている」という意味で、その人にふさわしくない言動、服装などをする人や、自分を過大評価して大言壮語とは言わないが「身のほど知らず」と批判されたものですが。

 

そんな自分の嫌なところが出てしまったことが数回ある。ハッと気が付き調整、修正をその場で急ぐが、すでに遅い「オヤジ!」扱いで適当に返事が返ってくる。そんな目(扱い)をされると自分が嫌でしょうがない。

 

狭さは陋猥(ろうわい)を脱せない。

 

嫌だ嫌だ!自分が見えない。まさに陋猥である。振り返ると「自分を良く見せたいのかな」力のない者が羽を目いっぱい広げようとする。

バブル期の自分の姿が抜けきれないのか。

 

時々陥る心境である。

今日も帰り道、自分を振り返りながら今度はこうしよう!こういう態度を貫き通そうと誓いを立てて家路につく。

 

今頭から離れないのは「面白い小父さん!」という言葉でじゃあ!どう見られたいのか。過反応の自分はある人に「サービス精神が旺盛なんですよ」と言われたことがある。

 

そうじゃないB店でも憧れる男性がいる。あのようにありたい。それでも人間の生活は出来る。十分に。

 

眼の前に常に「今日はこうありたい!」と紙でもぶる下げていたい。

 

変わりたい、今の自分から。年齢なんて関係ない。狭さ故に広さが見えない。