今回のノーベル文学賞が実に面白い、興味をそそられる。

今回のノーベル文学賞が実に面白い、興味をそそれれる。

 

私は村上春樹ノーベル賞を受賞するべきではないという人間です。

理由はというと語る資格は無いのですが、実は村上春樹氏の本は一冊のみです。、

私の愛読書、三島由紀夫安部公房ノーベル賞候補だったのです。

 

語る資格が無いというのは一冊のみで正直、通俗大衆小説では第一級であると言うべき作風であると思った。

 

そうなると三島由紀夫に見られるような旧来のインテリア風の格調も、安部公房のような実験性もない。という印象なのだが、どうでしょうか。

 

極端ですが、「ライトノベル」 のような読みやすさであり、面白さである。

 

日経BP社『ライトノベル完全読本』においては「表紙や挿絵にアニメ調のイラスト(≒萌え絵)を多用している若年層向けの小説」とされている。 また榎本秋は自身の著書における定義として「中学生〜高校生という主なターゲットにおいて読みやすく書かれた娯楽小説」としている」。

 

もう一言加えるならば「広く読まれていることは、必ずしも深く読まれていることを意味しない」

 

だって、三島由紀夫安部公房を読む読者は、ある程度落ち着ける場所で、ゆっくり時間をかけて読むだろう。真剣に集中して読まなければ、その作品を十分に味わえないと、文章そのものが示しているからだ。

 

文学賞も恣意的に選ばれています。

本来受賞すべき、村上春樹さんが、毎年落選します。

 

ノーベル賞はユダヤ人が決めるもの。ノーベル賞の黒幕は、ユダヤ・ロスチャイルド(勿論、ロックフェラーの影響も大きいですが)

 

イスラエルに招待されて文学賞を受賞し、その場でパレスチナの民への共感を口にした村上さんは、毎年、下馬評に上がりながら、受賞を逃してきました。

 

恐らく、世界中のユダヤ人たちが、彼の受賞に反発すると見て、受賞が見送られてきたと見ます。

 

受賞したら、授賞式で「反イスラエル」を口にしそうな硬骨の人ですから。

 

これが村上春樹さんがノーベル文学賞を受賞できない理由です。

 

 

文学賞は ボブ・デュランが受賞した。

「ディラン氏は吟遊詩人の伝統の優れた伝承者だ」とたたえた。

. プロテストソング(抗議の歌)として反体制への眼ッ政治性が強い。それまで陳腐なものが多かったポピュラー音楽の世界に文学を持ちこんだ。

 

私は常に候補上がっていたとは驚きだが、デュランが得たことをには、個人的にこみ上げる思いがあるのです。

 

というのはデュランそのものというよりも音楽には特別な思いがあるのです。

それは私の音楽には劣等感があります。音楽の先生に小・中・高校と恵まれず、大嫌いになりましたが、音楽そのものは身体にリズムのような「ノリ」がありました。

 

なんでしょうね。生まれ変わったら「音楽家になりたい」というのは私の夢です。

 

さて、村上さんですが、「ノーベル賞はユダヤ人が決めるもの」と思われたくないユダヤ裏社会が、あえて、村上さんを受賞者に選ぶかもしれない。

 

下馬評では僅差で2位につけている村上さん。

 

もし、受賞したら「ユダヤ裏社会」が、そこまで媚びを売らなければならないほど疲弊している証左であると思います。

 

ノーベル賞茶番劇、これからも目が離せません。

 

潜在意識に音楽があるのは絵描き「絵画」の世界では成功するはずがないですね。

ゴッホセザンヌなどなどよりはショパンですね。というよりも固定的ではなくラテン、特にアルゼンチンタンゴなどなどキュン、キュンしますね。

 

恐らく前世は南米に暮らしていたのでしょうね。懐かしさみたいなものが蘇ります。

 

明日のコンサートですが、このEさんは「紗」と「千」が名前として、面白いですね。というよりも、私の陰陽師として興味ある存在です。

 

「紗」は薄く透き通る絹織物。「ぼんやりとした様を示す」「紗がかかったような」という表現は今も使われている。

 

ぼんやりとした意味を示す。

 

ぼんやりと、オブラートに包まれたような、薄い霧がかかったような、やんわりした状態を示すときに、よく使われる言葉。

でも、やんわりと言う訳にはいかないでしょうね。性格が強いからね。

 

このようなコンサートなど初めてなので不安ですが行ってきます。