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複雑性悲嘆の恐怖!

E子(以後、大きな娘と言う)からメールが入る。

「パパ(初めて言われた)ごめんなさい。パパも大変なのに勝手なお願いをして。私も仕事をしているから何とか頑張ります」。

 

私の仕事の内容は母親から聞いているのであろうが、きっと今は孤独な年金生活をしている老人と思っているのであろう。占いなどをしていることは昔のように趣味程度としか認識がないはずである。

 

無理もない。何十年も会っていないのだから、母親は育ちのいい、ボンボンとしか思っていないから。

 

こんなに力戦苦闘しているのに。

それは今はそうとしか思えないだろうが、二人の愛と理解をいう額縁の中でのことであろう。

 

大きな娘の突然の出現は意味深である。

生活ぶりがこれでいいのだろうかと反省していたのである。それならば大きな娘に質素倹約をしてあげた方がいい。自分が望んでいる人格に向かった純化してゆくことでもある。

 

私にしては異常なほどに強い義務感に変わっていた。

 

口座を聞いているので振り込みをすることに、そうしよう。そうすればきっと又尋ねてくるだろう。きっと。

 

夏の間の飲食では冷たい物を飲み過ぎてとうとう胃をやられた。季節の変わり目には毎年そうではあるが、年々症状がキツイ。

 

こんなに体調を壊すと、皮肉にも娘の出現で余計、心理的に追い込まれる。

 

それで西馬込の整体院に向かった。先生からは「仕事柄、いろいろなものを背負っていますね。かなり重症ですが、今回は田んぼで言えば土を耕す程度には施術しておきます」と。

いつもながら眼識は無視しがたいのである。もう一度行くことにした。

 

そうであろう!家に帰ってきてもいつもなら、祝日なのでえびす家は休み、それでもBaccoには行くであろう。その気にもなれない。

でも、えびす家は特別です。夕食には行くでしょうね。

 

更にはこのところの体調で表情にも、ものを食べる楽しみもなく、生命をつなぐ為にその夜の食事をとっている。大腸へ送って糞便をつくる為に食べ物を摂っているかのようである。

 

部屋の雰囲気が何か違って見える。ふと!自己流の盆栽をみると、それは低木で花に野趣があるもので、実は気に入っている。

それが元気がない。こんな時は植物までが物成りが悪いのである。

 

私は絵画や植物(観葉植物)は人にとって身の回りの装飾であると思っている。

そんな部屋でワインやコーヒーを飲むのも楽しいし、又広げている新聞に広告欄という絵画的部分がなければ紙面として面白くない。

 

こうして躁鬱とかいった衣装を着ているとつい、にじみ出てしまう人間の根元的な感情がある。それは「悲しみ」と言うほか表しようがない。

 

時々、こうなる!とうとう来たか。終末期か。

 

複雑性悲嘆の恐怖

日本人は、自分の気持ちを表現することが苦手です。しかし、『終末期』は時間がありません。本当はもっと、話をしたい。手を握りたい。肩を抱き寄せたい。そして、抱きしめたい。

しかし、自暴自棄になってしまい、大切な家族と素直に向き合えない。 もっと一緒にいたい。外へ出て、思い出の景色を一緒に見に行きたい。最期に抱きしめたい。