弟子が私の身体、生活振りを心配して新潟からやってくる。

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<天国と地獄絵図>私の作品ではありません。

久しぶりに新潟に住む一番弟子、私より稼ぐ預金が「億」と言う女性、ブログに書いたら怒られました。

 

それが理由ではないが、私の健康と生活を心配して狭い穴倉のような部屋に2日間泊った(体調を心配して)。よく話をしました。

いきなりの質問「先生!よく尋ねられるのですが天国と地獄は存在するのか、霊魂と言うのはありますか」ということである。

 

天国と地獄については私は得意先の宗教法人の依頼で、行ったこともない地獄絵図を描いたことがある。実はそれにはイメージよりもそれを鎌倉や栃木の寺に絵図を参考に見に行った。

 

この質問にはあるキリスト教の牧師、浄土宗の高僧(空海だったか?)の回答を譬えました。

「天国とか地獄があるかないかではなく、その話の上に存在している」

湯川秀樹氏が「霊魂はありますか」と言う質問に「あるともないとも言えない、というのが科学的ということじゃないでしょうか」と答えている。

 

と。答えになったようなならないような。「要はこうした世界ということだよ」

この地獄絵図を描いている時、参考にした絵図を見るたびに具合が悪くなり、えびす家へ這いずって店内へ入ったという記憶があります。勿論驚かれていまだに語り草になっています。

 

こうした絵図を描くというのは9割までは技術で、あと1割が魔性である。その魔性がどう昇華するかで作品が決まってしまう。

まあ!遠ざかったとはいえ、考えるに、絵を描くというのは、頭から個性の表現なのである。

 

実は描くというのは(強いていえば占いも)結局は自分の体を少しずつ少しずつ破壊していくことに違いない。一作(一つの相談)ごとに自己破壊が伴う。肉体もたまったものではなかった。

 

弟子には「先生も心臓を少しずつ破壊していられますよ」「お前はだから稼ぐのか?」「そうですよ。先生を見ていると気の毒で、でも先生は出来ませんね」「私は占いが終わると直ぐにいくらです」と言うとのこと。大したものです。

 

でもね絵画(占いも)というものはものは物を説明するのではなく、本質というか、芯のようなものをえぐり出すものだということを考える。

 

これは二律背反というより風場牛のように思います。

 

ですから芸術のもとは、平凡だが情緒(エモーショ)と情操(センチメント)から出来上がっている

 

芸術論などとはいえないが、芸術などは本来議論すべきものではなくマージャンはマージャン、碁将棋は碁将棋だと思っている。私にとってどちらでもいいことことでした。

 

この二日間9月の暦を30数人分を作成、こんなことがそう言えるのであろうか、何しろ体力がいる。そして夏場の疲れから体調がおもわしくない。

 

飲食の影響かと思うがそれに伴う、回復力が悪く、いつまでも疲れが引きずる。年齢からくるボケが始まったかと恐れる現象が起こる。

 

久しぶりに浅草から誘いがあり、懐旧の談にその時々の思い出を楽しく語り合いましたが、義理で二件の梯子は今の私にはキツイ。

 

でも居酒屋「笑ひめ」では料理が大変進化している。素晴らしいので思わず写真を撮った。

寿司の「いさりび」の握りは相変わらず最高である。シャリが私の好み。握りにも工夫があり、美しい。

 

浅草では何軒も食べ歩いたが、最後はこの二軒に落ち着いた。

 

  • 地下鉄で新橋駅は階段が多く、大森駅でもやっとタクシーを拾って自宅へ帰りついたといった具合である。

*礼子さん暦出来ています。PCが壊れデータの消失、携帯を落として連絡が取れない。電話をください。携帯アドレスは同じです。パソコンも。