野に咲く花のように。

f:id:bunsanjp:20160816084931j:plain

私の相談者の中には、特にご熱心な方曰く「先生のお弟子、相談者から見ると、もう!宗教ですね」と言われる。そう思う人もいるのかなと、畏れもなければ、不安もない。 ごく自然にそうなったら、そうで人の想いは様々で弟子曰く「先生は奇矯な振る舞いがそう思われるのではないでしょうか」と言われる。

 

「奇矯か?」と思わず黙し、口を噤んでしまった。思わず「「奇矯さは必ずしも天才の条件ではない」宗教など天才があって、思想の歴史を見てもそれを証明している。

インドでは釈迦から始まり、最澄空海親鸞などは言えるのでしょう。13世紀以降のことは、述べません。 教団として成立したのはその弟子などによるもので思想を宗教と言えるかどうか殆ど哲学であって、突き詰めた方々は空であり、数学上のゼロ(インドから)の別名です。

天才は教義も経典も残さなかった。「解脱」という自分の為の思想であって、私の場合は「生活の一部で糧(宗教絵画)」である、彫刻など具象的ですから、せいぜい絵像ですら宗教になりえない。

 

私に好きな言葉で禅にはアファリズムがあります。たとえば「石上花ヲ栽ウレバ生涯自ラ是春」という激しすぎるほどの言葉です。

意味は、悟りをひらくのは石の上に花を栽(う)えるような不可能にちかい、しかしうまく栽えれば生涯は春のようにおだやかな心で過ごすことが出来る。というものです。

 

最近、弟子の「奇矯」発言と特に以外だったY君の「私の思想は神の領域」と発したことから我が身を思わず見つめてしまった。  

1.自分の表情、自分の服装、髪型、背丈、体系、歩き方を紙に書き出します。 2.今までの経験を紙に書きます今までの経験から、外見に対しての(周りの反応、影響、相手が話してくる言葉、言葉使い)を紙に書きます。

こんな分析も現実的で面白い。愚かなながら格好だけですがそれだけな人間です。

 

そうすると先日Y君が子供3人を連れて我が家にPCを引き取りに来た時、わが僑居(寓居)は今思えば、とても天才の住まいではない。

 

わが僑居をY君は見渡した後(暫く後)にえびす家で私の思想を「神の領域」そう言ってくれた。以前にも「私でもわかる一つ言えることは、川嶋さんは理屈を超えて「心」を大切にされている特別な方でいらっしゃると思います」。というのは何よりも今の自分の生きている価値(役割)を意識する。このまま進んでいけばいいのかな。

 

偉大な天才を意識して言っているのではない。私のお代理としての役割を敢えて自覚しているにすぎない。この頃、意識するのは三十数年、年来続けてきた人生の分岐点ではないかと思えるのです。

 

野に咲く花にも役目があります。 この世に必要でない人はいません。 それに気づくかどうか。 それが大事なのです。