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純粋に人の幸せを願う行為と都合のよい関係が多すぎるのがつらい。

K氏のお見合いの件は公表することではないのでこの位のしておくが、、考えてみるとK氏も幸せだと思った。えびす家では皆さんこの件がまとまるのを望んでいる。

 

K氏の人柄でもあるが、私が反省を含めて「ハッと気がついたのは、えびす家内では私がその進捗状況を話してしまっていた。それもごく自然に当たり前に、罪の意識はないのだが余り公開するようなことではない。

 

まとまればいいのだが、万一まとまらなければK氏の恥になる。 それで自分言いわけっぽいですが、えびす家では商売柄、人の出入りを見ている。それで人を見る目も人一倍優れている。口も堅い。そんな方がらに応援、心配されているんですから幸せです。

 

私も仕事柄、人を見るのが仕事なので其の鑑定通りの人、その通りになっていく。私が仕事(役割)とはいえ、えびす家の人を見る目の確かさは 一目も二目も置く「こんな上品な女性に何であんな人が」とか。私の仕事はこうしたことが多いんです。「何でこんな男ととか女性とと」 人の好みとはいえ、それに差し挟むことが出来ないことが、とても辛いことがあります。

 

案の定、女性の対し男性の場合が多いのですが、私のいう通りになります。それが向後の不幸に繋がる。

 

私の仕事で「相性」ということがあります。相性が合う合わないは確かにその結果がはっきり出ますが、例として私の両親などは水と油の如く合いません。喧嘩しながらも一生を全うしました。相思相愛などあり得ません。

 

そうした事の理由として占い的には基本的には合いません。でも何故、一緒にいるんであろうか。それは現実には結婚をしないでいる関係。それですと「欲」「他を利用する心」で接することが出来ます。

 

具体的には基本の相性の外に第二、第三の結びついていられる星が存在します。それが救いで基本的には合わなくても一緒にいられる理由になるのです。大人の他人ですと所詮「欲」「利用価値」加えれば「計算」で結びついています。ケースが多いですね。

 

結婚ですと家族という守るべき囲いの中にいるわけで、他人同士ですと其の囲いがありません。一瞬の享楽でいいので引きづりません。気楽なんです。

 

相性にはその真反対もあります。相性がいいのですが他人同士の男女関係、本来ならば一緒に暮らせばいいのですが、それまでの歴史がそう出来ない。20代~30代というのと違いますので都合のよい関係が実に多いのです。妥協、打算ですかね。

 

此の頃の占いではこうした晩婚者、そこそこに社会的経験者のこした関係が多く。結婚が全てではないですが、人の成長には「我慢」が成長を促します。我慢、否忍耐、辛抱です。

 

私は人の心が見えてしまうので別れを何度か経験していますが、ちょっと違う世界観なのです。(言い訳かな)

 

我慢じゃないですね。

我慢とは、仏教煩悩の一つ。強い自己意識から起こす慢心のこと。現在、一般的に自分自身を抑制し、また耐えるという「忍耐」の意味あいで用いられる「我慢する」は、もともと「我意を張る」などという強情な心意を介した転用で、近世後期から言われるようになったとされている。

 

 

「崩れ」の魅力。自然で他の女性が見劣る。

こんな仕事をしていると相談内容に最も多いのは結婚相談で相手との相性占いである。

次に引っ越し、新築改築の相談である。

 

結婚相談で相性を見る立場ばかりであるが、今回は実に久しぶりの私の整体の先生K氏の嫁さがしである。その心構えは以前からしていて、心当たりは「いい嫁さん候補はいないかね」と尋ねる。

 

それはえびす家で私の女性としては初めてのタイプ。一見、人懐っこく気取りもなく、人によっては軽く見られるが、いやいやそうではない。 他にこだわりの多い人が多い、それもつまらないこだわり。つまらない男や女に引っかかり、気がつかない等様々だが、私は人として「崩す」崩せる人は自分をよく知っている。そんな人ほど芯は崩れない。芯がしっかりしている。

 

話の内容はともかくも、軽い話でも普通が普通でなくなる。そんな人がYさん喋り方にも個性があるのだが、えびす家では大評判。考えると崩せるとは自信が無いと出来ない。

えびす家でもブランド品を纏い、高腰で臨む人が多いが、かえって薄っぺらで周りが余計な気遣いが発生する。というのは形、型にこだわるから。

 

崩せるとはそれが魅力になるのもこのYさんならではではないか。真似が出来ない。 私も構えてしまう。自分をよく見せようとするのは本能でしょうね。

 

このYさん仕事面でもしっかりとしている。ご活躍である。

 

この大好きな一見明けぴろ気なYさんの紹介でFさんをK氏のお嫁さん候補の紹介をしてもらった。それも「YちゃんこのK氏にいい嫁さんはいないかね」と言うと「いるいる!」と即返事が返ってくる。それがYさんならではある。

 

私は超行動的、積極的な人間で動きは速い!早速、ご本人に連絡をする。 それはYさんの配慮と信頼関係にある。Yさん(実はYAYUIちゃんと言っている)

 

形はお見合いなので段階を踏む。手順を踏むとお相手のFさんには了解を得た。それはあYAYUIちゃんが間に入っているからである。

まずはお相手のK氏の略歴、年収、写真、仕事場を写真を送る。

そうすると直ぐにFさんからご本人の寛ぐ写真が届く。それもYAYOIIちゃんが間にいるからである。

 

まだK氏には写真を見せていない。明日にでも治療院に持参するつもりである。

 

占いで結婚相談で相性をみるのもいいがこんなご縁を築きあげるのも酔興と言われそうである。

 

でもこのFさんとても強い星を持っている。YAYOIさんに報告も兼ねてメールしたが「Fさんは、強い人なんですね〜〜会社では、なんでもできる優しくて優秀な先輩です(o^^o)」と返事が来た。

それでこう答えた。「強いということは嫌な人ということではありません。強さ故に心にゆとりが出来るのです。弱い人はゆとりがありませんから自分のことで精一杯なのですメールのやり取りですがいい方ですね。文章で分かります。YAYOIさんのお薦め通りです。あなたの確かな目は信じていますのでその通りであったのがYAYOIさんが大好きになりました」と答えた。

 

改めてこのYAYUIさんははっきりしていて気持ちがいい。結婚しているので「子供は産まないの?」「子供は嫌いだから」とはっきりしている。実に気分がいい。

 

気取った女性が多い、個人的には素晴らしいのに相手が悪い、物足りない。男性が立派でも女性も学歴、財産があってもつまらない女性が多い。奇妙なこだわりが多い。

気がつかないで生きている。それほど気の毒なことはない。それがこのYAYOIさんは実に自然で繰り返すが「崩れ方」がいい。格好いい。

 

どんなブランド品を着てなくてもYちゃんの着こなしは自然。意外とバランス感覚がいいのっでは。それでなくては営業は出来ない。「忖度」である。

これは、「他人の心をおしはかる」という意味になります。 簡単に言うと、本音を探るような意味になります。

建前ではそう言うけど、本音はこうだ、と忖度する。

他人の気持ちを察するのは難しいので、決め付けはしないように気をつけたい。それはやはり「崩れ方」が魅力的であ

戦に勝つということは。

辛いなあ!70歳にはそろそろ土・日曜日の知的賞が者のお婆さんのお世話はきつくなってきた。

8時からですが、準備もあり、6時起きるのだがこの土・日曜日は自分に勢いをつけて6時代に出発、近くの公園でゆっくりと新聞を読む。

 

何故、公園なのかとバカにされたことがあるのだが、部屋が狭いということもあるが、広くて立派な住まいでも引き籠りになっては。私は自然の中、緑、風の中がいいのです。喫茶店ですら嫌なんです。

 

お婆さんのお世話が終わって、部屋でほっとする。でもやらなければならない洗濯を又自分に勢いと付けてはじめる。やってみたら大したことはないのだが億劫である。

 

占いの方では新たな動きが、古い相談者の復活が頻繁である。それだけ世の中が形勢・世相などが穏やかではないからなのか。

 

このところ、そういう時代が訪れるとは思っていたが、取捨選択の時代になっている私は順番にこだわるが捨取選択を使うが、占い師のH氏、守護霊の何て言いましたっけその方がらがこの世界から相手にされなくなっている。次々を潰れる人が多い。

 

マスコミに出てはダメなんです。真実を語れない。TV局側からこう言ってくれ、こういうことは言わないでくれと要求がある。それでダメになる方が多い。

 

だから私は出ない。

 

その中には改めて私の占いの価値、蓋(けだ)しであろうと認めてくれたというケースもある。何しろ又、吉方取り(吉方、凶方を指示。吉のいい磁場の所に行く)の暦の要求が多くなりそうである。

 

確かに吉という「良い磁場」の所に向かうというのは蓋しその通りである。吉方取り、良い磁場でエネルギーを得る事の大切さを改めて認識した。

 

宗教法人の公演(私は座談形式ですが、公演は宗教学者など著名な先生方が)の内容が決まりそうである。

 

「大功は妖怪をつくる」

既にご存知の人もいると思いますが、読売新聞の編集手帳の一文を紹介します。

一ノ谷の戦い平氏に大勝したとの知らせが原氏方の大将、頼朝のもとに届く。その夜、頼朝が家臣の大江広元と語らう場面が、司馬遼太郎さんの小説「義経」にある。

 

「いますこし、控えめの勝利でもよろしゅうございましたな」。戦勝が大きすぎたことを広元は憂え、いぶかる頼朝にわけを告げた。「大功は妖怪をつくる、と申します」。妖怪とは「慢心」を指す。鵯越の奇襲に成功した戦勝の立役者、源義経の心にはきっと慢心が兆すだろう、と。

 

戦に勝つということは、「五分を上とし、七分を中とし、十分を下とする」の意味。

 

勝負事は勝つか負けるかはわからない、ですが勝ちたいものです。

勝つためには、勿論全力で戦うので勝ってしまう時は、思いっきり快勝してしまう事もあります。

しかし、武田信玄は、勝負ごとに勝つのは当たり前としても、勝ち方にこだわりを持っていたのです。

五分の勝ちであったら今後も頑張ろうと励みになり、七分の勝ちで手を抜く怠け心が出てくる、そして完勝だと、敵を侮る、おごりがでてくる。

その怠け心や侮りが負ける原因になる。実に深い言葉ですね・・・。

 

戦に勝つということは、五分を上とし、七分を中とし、十分を下とするを日常で使おう

 

調子がいい人に注意を促すときには、非常に良い言葉です。

浮かれてる気分を害することなく、釘を刺すことができるなんて相手も気分が良いですし、周りも「この人なんて大人なんだ・・・」と思う事でしょう。

 

武田信玄はその生涯あまり負けたことがないのですが、負けるパターンは最初に勝っていて、その後周りの忠告を聞かずに突撃⇒返り討ちというものでした。

そんな経験をもつ信玄の「戦に勝つということは、五分を上とし、七分を中とし、十分を下とする」という言葉は重みを感じますね。

 

この言葉は「いつも自分が信玄(当然だが)に及ばぬところは実にここにある」自分の失敗から確実に学ぶ。言葉というよりもう哲学的な感じまで受けます。

 

「慢心」がもたらさない種にも辛勝が大事ですね。競技などで、やっとのことで勝つこと。

 

大勝=10点差以上つけて試合に勝つこと。

圧勝=相手を寄せ付けず勝つこと。

完勝=相手を0点に抑えて勝つこと。

楽勝=力の差がはっきりと出て試合で勝つこと。

快勝=試合展開的に余裕で序盤から点を取りそのまま点が開いて勝つこと。

辛勝=ぎりぎりの試合でぎりぎりで勝つこと。

 

そういえば父が古武道抜刀術居合術)の先生をしていた。その父から言われてことを思い出した。

親に説教されたけれど今となって有難く思える。それが上記の言葉である。「親父の小言と冷酒は後から効く」ものだ。

 

「諦める」限界と悟り、断念をする」と「想いを断念するという意味で「諦める」がある。

私のペースにしては今回ブログの頻度は落ちた。

その目的が作品制作中や相談がPCで受ける場合に内容によっては非常に返答に気を遣う。 それで作品もそうだが結構時間が掛かる。その間に気分転換に途中に浮かんだことをブログ化する。以前言ったことがありますが、気分転換に深夜の散歩があったが、職務質問を受けたので止めれいる。

 

それでブログの効果は大きい。

 

今回、宗教法人の青年部から公演(座談だが)依頼があった。それでテーマに臨んだ。

今回の都議会選挙についてとか、学校法人森友学園とそれに絡む安倍昭恵夫人を占い、そのお話しとか。占いでは民進党 辻元清美議員などと調べていくうちに、こんな大それたことをするような勢い、運勢なの欠片もない。

 

恐らくはこれは自分以上の事に絡み過ぎた為のことで、其の騒動の渦中に引き込まれたと言えるのではないか。

それよりも遥かに面白いのが、学校法人籠池学園の理事長 籠池泰典氏である。とても在日であり、次回の残しておく。

 

それで公演のテーマが決まった。

それはちょっとしたきっかけだが、えびす家のマスターの言葉である。

いつも日本の居酒屋ではタブーである政治と野球の話し。それがえびす家ではお盛ん、マスターも満更ではない。お客ではカウンターに座る面々にもいらっしゃる。好きですよ!

 

其のマスターは普段そうした内容の会話はカウンター越しに飛び交うが、時にじっと「我慢」する、「呑みこむような表情」をフッとマスターを見返すことで気になっていた。

 

ある時「マスターはいつも会話中(自分以外)に呑みこむように我慢していますね」と言ったことがある。その返事が以外というか、今思えば悟ったような、悟り・そう自分を堪えている。そんな姿は気になって仕方がなかった。

 

その言葉とは「我慢というより、諦めですかね」と言うのである。時が過ぎれば過ぎるほど心んずっしりと重く鉛のように重く残っている。消化できないでいる。

 

それで「諦め」という言葉を公演に選んだ。

それがとんでもない深い深い意味があるのです。とんでもないことに手を出してしまったと後悔した。

 

でも「諦め」は瞬間ネガティブな意味に捉えてしまう。がとんでもない調べれば調べるほど、「自分自身の限界とか周りの状況を受け入れ、理解して、次に進むための言葉」でだから未練を残したままダラダラと引きずるよりもスパッと想いを絶ち切って次に行ってみよう!というポジティブで前向きな言葉だと思うんです。

 

今、日本語で「諦める」といえば、自分の願いごとが叶わずそれへの思いを断ちきる、という意味で使われるのが一般だ。

 

しかし、「諦観(たい(てい)かん)」、「諦聴(たい(てい)ちょう)」といった熟語の「つまびらかにみる、聞く」にみられるように、「つまびらかにする」「明らかにする」が、本来の意味である。そして、漢語の「諦」は、梵語のsatya(サトヤ)への訳語であって、真理、道理を意味する。

 

単に「あきらめる」だけであれば、悔い、怨み、愚痴が残る。ものごとの道理が明らかになった上でのことならば、納得しての「諦らめ」となる。

 

結婚というご縁にあずかった。諸般の事情を考慮してこの辺で「あきらめて」結婚に踏み切るか、わが身をしっかりみつめ、賜わったご縁を「諦めて」結婚するか、そこには大きな差がある。後者であれば、後で、こんなはずではなかった、と愚痴ることも少なかろう。

 

占いをしていると圧倒的にこういう方が多いのです。縁を諦めている人。

 

 悟りを開かれた釈尊は、その初説法で、四つの真理(諦)を説かれたという。

第一の真理は、この迷いの生存は苦である。という現状認識。

第二は、その苦は飽くことなき欲望から生ずる、という原因究明。

第三は、その欲望の滅した境涯が苦のない悟りであること。

第四は、悟りを得るには正しい八つの方法に依るべきこと。である。

 

*ここで注意すべきは、仏教が、我々の苦悩の原因を、我々の飽くなき欲望、我々の無知に帰している点である。ややもすると、我々は、自分の苦悩は、社会が悪いから、あの人のせいだからしょうがないといって、「あきらめる」ことでよしとする。

逆に、それは自分の欲望、無知に基因すると「諦める」ことができれば、現状を受け入れ、解決の方法をみつけやすい。

 

 それでは、この四つの真理に通ずる仏教の根本道理とは何か。それは、一切は相対的な存在でしかない、と諦らめ、執着しないことである。

 

『諦める』って『未練タラタラの状態のまま断念する』とか『途中で投げ出す』みたいな意味もあるとは思うんですけど、「諦める」の語源は。

 

仏教的な所から来ている『物事を明らか(あきらか)にする』『思いを断つ』のような悟りに近い意味です。

 

マスターは「限界と悟り、断念をする」と「想いを断念するという意味で「諦める」があるのではないでしょうか。とても分かるんです。

 

「諦める」とても奥が深い言葉ですね。

これからは、積極的な意味で「諦める」を使うことを意識するといいと思います。

 

こんな分母・分子があるのです。

 

幸福=財 /欲望 どれも多すぎてはいけない。

     

元の木阿弥。

ボランティアで知的障害者のお婆さんのお世話が終わり、家は帰ればやることが沢山ある。洗濯が溜まっているのでやらねばならぬ。

温かくなって冬物なども洗濯とクリーニングに出さなければならないので整理するなどやることは一杯ある。季節の変わり目は毎年そうだが”モノに丁寧”さを大切にしている。

 

そんな整理整頓をしていると身体に電位(エネルギー=潜在すること。また、可能性としての力。物理的表現ではあるが、位置のエネルギーのように、物理的な場が、物体に潜在的に与える働き)が生じる。

 

そうすると忽然と散逸していた資料、ずーっと所在が分からなかった写真(最初の奥んとの思い出と子供の)が現われる。きっとこんな時は奇貨を居(お)くべしとでもいうのか、得がたい機会だから、うまくこれを利用しようとしなければならない。

 

「奇貨を居(お)くべし」とは面白い。出るは出るは(大袈裟だが)珍しい品物は買っておけば値上がりするかもしれないというものと、ある貴金属(言えませんが)が出てくる。

 

こういう話は面白いが止め時ます。

 

さて、生活感まる出しのルーティンが終わると、仕事の戻る。

今回の仕事は全てにいつものペースとは違う。何故か作品を見て採用を判断する立場である。でも職人ですね、ラフスケッチですが、打ち合わせ、採用の理由を説明に使っている。

 

そんな時は「やっちゃう!」という、私の造形語である。こう描きたい、こう描くべだと思ったことは躊躇わずそう描く。遠慮するな。無我夢中でやればよい。という、れらの一切合財を含めたのが、授かった能力にある。

 

「本来無一物」ということが、基底にある。と思うと気楽である。

こんな気持ちでいると「老いが寄りつかない」今回の仕事の立場の欲求不満である。「何くそ!」とある。

 

前回も言ったが、若手の描き手は若いのに名門名利(社会的地位や財や評判ばかりを追求する人生をさす)に駆り立てるのであろうか。

 

「名門名利」はあだばな(徒花)に過ぎないのだが。咲いても実を結ばない花。外見華やかでも実質を伴わないもののたとえにもいうものである。

 

悍馬(かんば)がイタリアから帰ってくる。敢えて相当難しい言葉でぼかしていたほうがいいのでそういった表現をしている。激しい言葉だが二番目くらいのやや柔らかい強さをいっている。

 

はっきりした自己表現をした眼鼻立ちをしている。並みの素質ではないのだが、もったいない。厳しい世界を選んだので仕方ないがどういう人生を今後歩むのか。

 

ずっと話が逸れるが、大森駅ビル地下から一階にエスカレーターで昇っていると両側一面に鏡になっている。

髪型をショートにした自分の姿を忘れて「ポコン!」と腹の出た若作りのオジさんが映ってる「かっこ悪い!醜い!」とバカにしてうす笑い。

 

フッと、気がつくと何と己れの姿でわないか。恥ずかしくなった。

 

何とかしようと幾つかトライしたが、特に食事制限は真っ先に放棄、ストレスを溜めるよりも美味しいものを食べていた方がいい。結局挫折、元の黙阿弥。

 

 

 

 
 

 

 

「寿命」というものを考える。

聖書の中にも、寿命は、ギリシャ語の「ヘリキア」という言葉が出て来るのだが、この「ヘリキア」もなかなか含蓄のある単語だ。気になって調べると。

それは「寿命」と同時に、「背丈」と、「その職業に適した年齢」という意味を持っている。これらは、どうすることもできないものとされてきた。

人間個人の努力でも近希望でもい、動かせない要素ばかりだ。「なせばなる」ことの不可能なもの、死に先立つ運命である。

どんな才能のある人でも、引退はある。誰もが人間そのものを止める時さえ来る。それを私達は死とか寿命というのだが、新約聖書の言語であるギリシャ語では「ヘリキア」という言葉で当てられている。(曽野綾子氏の言葉から)

 

老いるということ。を素直に捉えよ。と言うことか?

 

 感受性が徐々に死んでいってから、次に肉体が 死ぬのがよいのだろう?といわれてます。 精神はいつ迄も若くても、肉体の疲労感がついて行けないときが、必ず来るのだ!

 

それが 生まれ落ちたその日から 次は『死』へ向かっての 旅立ちなのです。

 

 めでたい、めでたいといって立てる門松は、死出の旅路の一里塚といわれているのをご存知ですねぇ~しょんぼり!

 

朝、覚醒すると仕事で徹夜以外は不安感が襲う。

それで必ず思うことは「いつまで仕事が出来るであろうか」「健康に対する不安」こんな時は独りぼっちはとても辛い。 そうすると上述の思い(寿命)が全てを脳裏をよぎる。

 

仕事で絵を描くことはそうした不安感を忘れさせてくれていたのでしょうね。それがその時私は見栄を張って。「もう描けない」などというかも知れない。しかし実は「もう描けない」のである。そしてその時は必ず来る。

原則は一つだ。描けないときに無理をして描くことはない。

どの仕事の分野でも同じだ。そうなっても多分、私は静かに座り思惟する。私にはすることがなくなったわけではないのである。

どの仕事にも、いつかはそれが終わる時がある。

私はこの頃、肉体の死に先経つ立つこの精神の死に方にも、あまり抗わない方がいいと思うようになった。

順序としては、まず感受性が徐々に死んでいき、次に肉体が死ぬのがいいのであろう。

 

ホテルのバーで似非紳士を振る舞う。

大きな仕事が入りました。 それと独り住まいの叔母が自傷行為未遂で交代で見守っています。

 

仕事はとてつもなく大きなプロジェクトでその一翼を担うのがむしろ名誉なことで、余り儲かりません。でも忙しくなりそうです。

 

今日はこの数日雨の日が続きますが、土・日は知的障害者のボランティアで入浴と食事のお世話に行くのだが、正直6時に起床し支度をして出かけるのが辛くなってきた。

 

正直、雨降りですと合羽をを着るわけですから、億劫ですね。それに自転車がこの頃恐い!バランスを失うと踏ん張りが以前の力強さがない。

 

慌てて四股を踏んで上下50回(最初は精一杯)それが100回になり、200回を目指す。いま真剣に検討しているのは加圧式トレーニングです。

 

松山秀樹のような下半身どっしりとしたものが欲しい。70歳にしてゴルフの為に。

 

それで唯一のんびり出来たのが今日(日曜日)、ボライティア帰り買い物をして、雨ですから出かける気にもなれず、これから忙しくなるので普段出来ない細かいことをすることにした。

 

例えばシャンプー、ボディシャンプーなどの詰め替え、洗濯、恥ずかしながら冬は下着も股引(ももひき)風を履きますのでそのゴムが緩んだのを交換(マメでしょう!)

 

服が並みの量ではないので整理整頓、忘れている物も出てくる。、

 

時計のコレクションので希少価値(殆どがレトロ調)があるもので皮ベルトが剥がれてしまったのですが、時計屋で交換とはいきません。ベルトを含んでの価値ですから、接着剤で修理をする。

 

トイレ周りの細かい汚れをタワシでこすり落とす(風呂場との境などの水垢ですね)隅っこですが丁寧に。

 

すると仕事先から打ち合わせをしたいと日曜日なのにと気が重い。

 

新宿のホテルで待ち合わせ。ホテルのバーはラウンジが満席の時でも神殿のように森閑としている。

そこで我々も似非(えせ)紳士として静まり返っている。似非であろうが無かろうが、当人は紳士のつもりでいれば、バーもそのつもりで扱う。他の利用客である諸氏も、そのつもりで神妙にしている。いかがわしいといえばそれまでだが、皆心地よげにしている。アホらしいが仕事そっちのけで眺めていた。

 

何故かこんな場所の方が小声でも打ち合わせは捗る。

あのまま家でいるよりはかえってホテルのバーもいいものだ。自分が田舎者(似非というのが)の意識でそこのいたのでそれこそ外国へでも行った気分であった。

 

今回は立場は今までとは大分違うので自分以外の作品を見ることが多い。そうなると作品に匠気が見える。(市気というのか)技術、技巧を凝らす気持ちが見えてくるのは以前にない気分である。

 

年齢でしょうか。いわゆる市気匠気のある芸術家が多くなりました。立場が変わったからなのか。理想のない技巧家と称して人の歓心を得ようとする、おもねる気持ちというのでしょうね。

 

以前言いましたが、芸術は快感の秩序化であり、ただ芸術とは何事が突出している。趣味(センス)がいいというのは、出来るだけ無個性なものとして抑えざるを得ない。芸術は自己を主張しすぎる。